PEOPLETHE FORUM 千駄ヶ谷の住人

THE FORUM 千駄ヶ谷ってどんなところ?使い心地は?
実際に施設を利用している多様な住人から
話を聞いてみました。

03 樋口 貴信 Booth,Desk

「自分」というバックボーン

03 樋口 貴信 Booth,Desk

「自分」というバックボーン

[プロフィール]
樋口 貴信
アートディレクター / エディトリアルデザイナー
HP:https://www.takanobuhiguchi.com/


アートディレクター、デザイナー。
 
“クリエイティブ”を仕事にすることに憧れを抱いたことは誰でも一度はあるのではないだろうか。
それを体現するまでのセオリーは普通、美術大学やデザイン専門学校を経て行くため、その道へ進むことを決めるタイムリミットは余りにも早い。
 
そのセオリー通りの直通列車には乗らずにそこへとたどり着いた一人のデザイナー。
 
今回は樋口 貴信氏にこれまでの、そしてこれからの展望について話を伺った。


 

以前の自分

某大学法学部卒。
それが彼の最終学歴。当時の彼は特にやりたいこともなく、ただ「法学部を出ていれば仕事にツブシが効くんじゃないか」という軽い気持ちを持っていた。
 
法学部というもの自体、そこへ入ることも卒業することも簡単なことではなく、彼が努力家であったことはうかがい知れるが、少なくともこの時の彼自身はデザイン・クリエイティブの最も遠い場所にいて、自分が今後その道を行くことになることは予想していなかったのではないだろうか。
 
就職も東京の食品会社の営業職。
デザイナーやクリエイターというものの存在は知っていた。
なんとなくオシャレだと感じ、憧れを持ち、自分自身は洋服が好きだった。
そんな一般的で普通な若者だったと彼は笑う。
 
人並みにそういうクリエイティブな職業を想うことはあっても、はじめのセオリーを外れている自分がどうやったらその職業につけるのか、なり方がよくわからなかったし、自分には到底なれないと考えていた。
 
自分自身が社会人になったころ、世の中はITバブルと呼ばれる時代でインターネットが急激に普及していた。
Web、というとてつもなく大きなフィールドが突然現れたことでクリエイターという職業の活躍の場所も大いに増えたことだろう。
 
そうして彼は自分の仕事をしながら “クリエイティブ”というものに対する興味を抑えられなくなっていった。
 
気がつけば彼のスタートラインがもうすぐそこまできていた。



 

営業職、そしてデザイナーへ

転職を具体的に考えるようになった彼はデザインスクールにも通いはじめた。
ただし、当時のデザイン業界は景気も良く、倍率が高かった。○○美術大学卒、デザイン専門学校卒、そんなセオリー通りの経歴を持つ人たちが挙って面接に訪れる。
当然のように門前払いを受けることの方が多かった。
それでも諦めずに転職活動をして行くと、「元営業マンって異色で面白いね」と言ってくれる会社があった。
ただ、年収にして100万ダウン。しかし彼は全く迷わなかった。
 
この時25歳、焦りは常に感じていたが職種を変えるタイミングとしてはギリギリセーフだと思っていた。
朝一番に出社して、仕事が終わっても自身の勉強で終電まで残る。
そのころのデザイン会社といえば専門卒の20歳くらいから働いている人が多く、その差を埋めるのに必死に働き続けた。
 
「学校で教わった」というベースのない彼は街を彩る無数の掲示物や紙面、時にはギャラリーなどにも足を運び、とにかくデザインというものを吸収し続けていった。
専門や美大を出ていないから横の繋がりはなく、常に孤独の中で戦っていたという。
 
しかし最初に入った会社は、クリエイティブというよりもオペレート的な仕事の割合が多く、「デザインとは?」ということを追求できるところではなかった。



 

ステップアップ

そうこうしているうちに30歳という節目が近づいてきた。
デザイナーとしての再出発をしてから約5年、実力がないとはいえ会社内での仕事はできるようになっていた。
責任のある立場に立ったり、給料もそれなりにもらえるようになっていた。
30になるまであと半年、更なるステップアップを目指した転職活動を始める。
ここまでの5年間でエディトリアルの適性があることは自分自身なんとなくわかっていた。
そして都内では雑誌系で最大手の某デザイン事務所での転職に成功した。


 

もがく

この時30歳手前、ここではチーフデザイナーなどの責任ある立場につくひとが27、28歳など自分よりも年下になるケースが多かった。
 
それでも入社してしまったからにはやっていかなきゃいけない。前評判を悪い意味で裏切りながら、それでも折れずに進んで行く。
3~4年間、アシスタントとして精一杯に仕事をこなしていった。そうしていくうちに社内でも人が入れ替わって行って自然と自分の立ち位置も上の方になっていく。
自然と責任のあるポジションも回ってきて、雑誌のディレクションなど、自分が思い描いていた「やりたい仕事」が手元にくるようになった。
 
成長の実感があるから他のことを犠牲にしてでもとにかく仕事に打ち込んでいた。
ここに来て8年。ある程度のやり切った感と自負、エディトリアルなら自分一人でも回せるという実感を手に入れ、ここでフリーになって、どうなるのかを自分自身で見てみたくなった。


 

独立

独立してすぐ、ラッキーなことに大きな仕事が入ってくる。
某有名雑誌の紙面のディレクション、これはフリーの人間が取れること自体がとてもラッキーなことだった。4人チームを編成してADとしてこの企画を指揮した。
 
安定した仕事ではあったものの、これもいつかは絶対に終わる仕事だということもわかっていた。だからその時のために自分自信を成長させる投資をしていきたかった。
 
そして2018年3月にこの仕事が終わり、今がまさに成長のタイミングだという。
ここ、THE FORUM sendagayaでのコミュニティが仕事を産むこともある。以前ここで行われていたイベントで知り合った企業の方と仕事をする機会もあった。
それ以外にもたまたまオフィス内にいる企業とクライアントが一緒になったこともあり、そういう時は情報共有などを行うこともできる。
クリエイティブ系の企業やフリーランスの集まるTHE FORUMでは、ここにいるということがプラスに働くことがある場所だという。
 
とはいえ結局、グラフィックだけとか、webだけというのは仕事に限界がある。フリーでやっていく以上は様々なことをマルチにこなせないといけない。
 
今、仕事も落ち着き時間もある。ここから一年くらいはデジタルの方に取り組んでそこで何とか結果を出したい。
ここまでもセオリー通りには来ず、自分の経験と吸収力でデザイナーとしての自信を高めて来た。
行き着く先は全てを一人で完結するわけではなく、チームとしてそのメンバーの長所を活かした制作をしていきたい。
そのディレクションをするにあたって、デジタルのこともしっかりと学んでいたほうがより良い結果を出せる。
その土台がある程度できて、仕事になって来たというところで自分の会社を持ちたい。
通常通りの経歴を持たず、オリジナルのバックボーンを持ち、これからもそのオリジナリティを高め、磨き続ける。
 
それが彼の目指すこれからのデザイナー人生だ。



 

あとがき

アートディレクター、エディトリアルデザイナーってなんだろう。デザイン業界に身を置かなければあまり知ることのないこの職業。
 
著者自身、印刷物やwebサイトをデザインすることは実務としてあるが、自分自身をデザイナーと名乗ったことはない。
 
何故ならば、美大も出ていないし専門学校にも行っていないから。そういう自分のバックボーンを持たない著者は胸をはって「デザイナーです。」とは名乗れないと思っていた。
 
今日、樋口氏に話を聞いてその認識は間違っていたと感じる。
何を持ってデザイナーとなるのか。何を糧に自分を磨くのか。
 
結局は自分次第なのだ。
 
スタートラインが違っても負けずに進み続けたからこそ得られた土台。
意志の強さがあれば慣れない職業などない。そんな風にさえ思える彼のこれまでの人生。
 
アートディレクターとしてはマイノリティです。と笑いながらいう彼には、本当に普通の日本人らしい謙虚さと、親しみやすさ、魅力を感じた。

お問合わせ
page top